グウグウなるのはお腹だわ。わたしたち運がいい。悪いことはいつも過ぎ去ったあと気づくというでしょ、台風一過の水たまり、不運もすっかり片づいてた。お天道様の宙返り! なんて短くても終わらない本があるそうで、私は読んでないけど一冊頼みました。 トリノツノやトビウオ、貝殻、粘土でできたタツが数珠つなぎの話になって頭の中に浮かんできました。けれどそのままぐるぐる渦巻き、口から出せなくなくなりました。 夢うつつに目の前には緑の砂地が広がっていき頭の上は深いコンペキで、まん中にまんまるとした満月がコガネイロをして浮かんでた。空になにも無いわけではない。 どこかしこからも音楽が。部屋の間、草の間、樹の上、虫たちの合奏はガヤガヤ不思議。蛇たちもシュウシュウシュウと虫たちに声を合せるではないか…そこにビシャビシャと夕立が降って、もう庭じゅうが水たまり、みな泳いで、潜り、羽ばたきしてガアガアガア。

2024│アクリル、キャンバス│224×365 cm

手が百本あればと思う。十本でもいい、三本でもいい。いやいくらあっても、(絵描きが世界の姿を写そうとするのあれば)、不足するだろう。が、そもそも造形とは世界が成り立つ理、その力を移し、それを掴むことだったならば、つまり造形とはそこにその理を移しかえ、その力を発現させることなのだから、庭作りも料理も建築も制作の肝腎要とはまず下拵え、土壌、土台を練り上げることしかない。ここに思いつき(賢しらな目論見)の入る余地はない。むしろこうやって用意しているのは、世界が生まれ育つ、どんな賢しらも届くことのできない閾の向こうの余地である。すなわち手が作らなくても余地はどこにでもあり、そこにわずかな溝、亀裂、隙間があれば、たちまち微小の根、無数の手、髭、神経がそこを狙って、向う側まで伸びていき、あちこちでこんがらがりつつも、広大な天網のように疎にして、なお何も漏らさず覆いつくしてしまう。要するに、人間のなさけない賢しらが棲んでいる、この漂白された時空の現在を覆い尽くしてしまう、宇宙の広大な天網こそが、絵を描く(=覆う)、はじめからあった無数の手なのである。数えようがない。

花火はどの位置から見ても同じ形態、たとえば観覧車のような光輪に見える。あるいは夜空の星はいつ見ても同じ配置で、地球の周りを回転しているように見える。われわれが(絵画として)間違って見ているのはこの観覧車、あるいは星座のようなものにすぎない。その形態の平たく不変(平凡)な様相はそれを見るわれわれの時空の極局所的な限定を反映した像にすぎない。宇宙の緒部分はそれを観測するわれわれの目(光)の速度をはるかに超えて、すでに!つねに!他方向に飛び去っていて、なおもその全体は同一である、とその像をわたしの思弁(そして方法)は仮に捉える。

BankART Station

道に迷うことがあっても、それはある人々にとって、もともと本道が存在しないから。であるからなげやりな歩調で口笛を吹き、歩いて行った。 無数の生活様式に対する可能性と同時に、それが要するにことごとく不可能であるという密かな自覚もある。その通り。へっぽこだからです。

2023│アクリル、キャンバス│163.7×91 cm

BankART Station

岡﨑乾二郎

おかざき・けんじろう

造形作家。批評家。1955年東京生まれ。豊田市美術館(2019年−20年)で大規模な個展を開催。「ヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展」(2002年、日本館ディレクター)などつねにジャンルを超えた先鋭的な芸術活動を展開するとともに、美術批評を中心として執筆を続ける。主著に『ルネサンス 経験の条件』、『抽象の力 近代芸術の解析』、『感覚のエデン』、『絵画の素』。作品集に『視覚のカイソウ』、『TOPICA PICTUS』など。BankARTでは2014年に大型個展「かたちの発語展」を開催。