2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
こちらへ投稿を希望される方は、右記のフォームよりご記入お願いします。 https://form.run/@letters-to-ikedaosamu
BankART1929 + 池田修追悼実行委員会
2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
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BankART1929 + 池田修追悼実行委員会
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池田さんより、これからを貰う
苦しい時期が続いたと思う。
コロナ、そして戦争、その前には、表現の自由が圧迫される時期が確かにあった。
表現の自由について、議論は深まったか?
表現とは何か?個人の自由とは何か?という前提もあいまいに、自立や自覚と言った言葉が昭和と共に忘れられていくように、存在自体が希薄化して、片隅に追いやられつつあるように思える。
間違いなく、アートにとっても良い時代とは言えなかったはずだ。
バンカートがそんな中でも、アートの第一線を走り続けることが出来た。それは、彼に拠るところが大きいと思える。現場主義というものを、彼は大切にしていたのではないか?
今、出来ることをする、それを続ける。
続けることは、案外パワーが必要だ。
しかし、続けないと、つながって行かない。
たたき上げの人には、良く理解出来ることだと思う。彼の判断は、根底では、感情や権威に拠らなかったのではないか?
レジデンスで行き違いがあった時に、経緯の説明を求められたが、言い分はきちんと聞き届けてくれた。
判断基準は、リアルに公平に。
それを続けなければ、筋が通らないところも出て来る。
筋が通らないところがあるならば、つながりが広がって行くこともない。彼の、はっきりとした、ズバリ指摘するもの言いは、魅力的だった。誠実で実直な人柄と私は思っているが、残念ながら、この国はそういう人や環境を選ぶ。
バンカートには、彼の言動が生きる環境があった。彼がチームを育て、そのチームが彼のビジョンを力強く後押ししたことは、間違いない。現場というものは、地味な下働きも多く、迷わず判断を求められ、それが間違いなく成功するという保証もない。
今の時代では、なかなか付いてきてくれる人が少ないと思えるが、バンカートのスタッフたちは、彼を信じ、また彼も人を見る目も持っていたということだ。2006年、私もアーティスト・イン・レジデンスに参加した。(ここからは、少し私事も混ざるので恐縮だが、お許しいただきたい。)
やれることは何でもするつもりで、現場で得られる材料で(一応許可は取ったが、常駐の竹を扱う作家は大丈夫だったのか?)、竹園というテーマで竹の部屋を作り、コミュニケーションをテーマとした個展を開催した。
手応えは十分と思っていたが、残念ながらその後に繋がって行くことは無く、私は地方に移住することを決意する。
しかし、バンカートで共有出来た意識というものは、地方ではまだまだ共有出来ないものであることを痛感することになる。これは逆に、バンカートの理念というものが、トップランナーであったことを裏付けるものだ。バンカートからは、ご案内をいただき続けていたが、とにかく眩しかった。
私の方はと言うと、未だに、上手くなるためには精神的自立とか自覚とかが大切だと示唆して、嫌われたり逃げられたりするような現場で、成果も答えも出せないで悶々としている。このまま人生が終わってしまうのは嫌だと、私の方から積極的に動き始めた時、訃報を耳にした。残念に思うと同時に、彼のことをもっと知りたいという思いが起きた。私はこれから池田さんに、心の中で聞いてみることにする。
「う~ん、まあまあかな?」ぐらいの答えが聴けるだろうか?
池田さんから、これからを貰いたいと思っている。 -
池田さんへの手紙
池田さん
池田さんに手紙を書くなんて思っていませんでした。
が、今はそれしかできません。
いつも、こんにちは、と声をかけてくれました。
横浜にいる必要はないのだから、と厳しい言葉も聞きました。
私はなんと答えたか忘れましたが、
それは本当に困る、と思ったことは覚えています。
バンカートで様々な人に、アートに会いました。
その空間にいることが、どれだけ私を救ってくれたか。
私にとって、バンカートにいることと、池田さんがいることは、
一体化していたような感じがします。
だから、バンカートが横浜にある限り、池田さんはいるのだと思う。
池田さん、今まで本当に、ありがとうございました。
そして、これからもバンカートは横浜にいますよね? -
PHスタジオの建物に触発され、息子は建築家になった。
池田修さんとの出会いはいまから約30年前。当時、私は名古屋でブティックを営業していました。店舗改装に伴い、建築雑誌で池田さんが山荘を設計したのを目にし、お願いしました。店の中に小屋があり、その中に商品をディスプレイする設計でした。
その後、1993年に自宅の設計もお願いすることになりました。角地に目いっぱいのコンクリート打ちっぱなしの壁を立ち上げ、中庭を設けた開放的な設計でした。当時高校生だった長男は、吹き抜けの通路に腰掛け、空間を眺めながら感じるものがあったと聞きました。彼は東工大の建築に進み、池田さんとのつながりから塚本由晴さんの研究室で学びました。卒業後は塚本先生が主宰するアトリエ・ワンで働き、個人でも建築家として活動しています。横浜トリエンナーレ2001ではアトリエ・ワンとして参加し、池田さんとの再会もあったようです。
池田修さんとの出会いのおかげで、毎日、美しく、楽しく、家で過ごせていることに感謝しています。ご冥福をお祈り申し上げます。2022年5月24日 玉井俊雄
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池田さんへ、「 唯一の足跡(そくせき)」
同い年である、池田さん、あまりにも早すぎますよ!
その後は、どのような計画をすすめられているのでしょうか?僕は東京造形大学を卒業後、ヒロシマに職を得て、忘れかけていた美術表現への飢餓感もあり様々な情報を得て日々を送っていました。僕自身、絵画表現には限界を感じていて、立体表現を何処かの空間や野外に設置することに興味が向かっていたところでした。野外の作品が美術としての発言になるのだろうかと資料を漁りながら、美術展を見に行きました。PHスタジオの存在を知ったのはその頃でした。世田谷美術館の「都市と現代美術―廃墟としての我が家―」のカタログ図版写真からでも伝わる、作品の面白さに目を見張りました。
1994年県北の総領町、三良坂町、吉舎町で灰塚ダムの工事が始まり、「灰塚アースプロジェクト」が動き出して、夏の終わり頃、PHスタジオの草むらにポツンと置かれた、何かしら可愛さを感じる白い家のような実物に出逢いました。プロジェクトの計画段階ではいくつかの作品制作が提案されましたが、最後はPHスタジオの間伐材を組んで大きないかだをつくり、ダムに水を入れる時に浮かせて山の上にのぼらせる「船をつくる話」が進行していきましたね。
住民との対話のシンポジュウムに参加し、作品の構想の説明会がダム近くの灰塚湖畔の森で開催されヒロシマから友人3名と一緒に参加しました。池田さんの計画は僕の脳裏には想像すらできないことでした。ただただ、驚いたことを良く憶えています。そこでは、これから始まるという「越後妻有アートトリエンナーレ」のディレクターの北川フラムさんの講演や美術ジャーナリストの村田真さんなどのお話も拝聴しました。説明者側と聴衆者側の人数がほとんど変わらないという講演会は生れてはじめての体験でした。新しいことが始まるというのは、大衆に知れ渡ることはあまり意味を持つことでなく、意志さえあれば可能だということを、その後の歴史で実感することとなりました。それは池田さんの「いかだを山にのぼらせること」での取り組み方や方法と寸分違わず、同じことだと思います。
その後、20世紀末から21世紀にまたがる作品制作を体感しようと、2006年3月水位の下降にともない船が山の上に不時着し地元神楽団による司祭が行なわれた完成披露が開催されるまで、毎回、足を運びました。2003年に長さ60メートルの間伐材の丸太を組んで出現させた巨大ないかだは、その上に立った時にこれはまるで、学校のグランドくらいある広さだと驚愕した思い出がよみがえってきます。この大きさの建造物?をつくることができることは疑問でしかありませんでした。人力で可能なことなのか?それは、頭の中では何となく理解できても、身体感覚で分かったのは人生においてはじめての経験でした。2014年のヒロシマの豪雨災害で土砂を取り除くボランティア作業をした時に人数が集まれば自然を動かすことができるかもしれないと思いました。ヒロシマ市内にある被爆建物である旧日銀広島支店と広島市現代美術館でのプロジェクトの進行状況やワークショップの開催も丁寧な取り組みに心を動かされました。県北の小さな町の1つにしか過ぎない三良坂町の古い商店街の空き家を借り上げ事務所として使用するという、作品完成までのプロセスこそ作品であるという根気と忍耐強さに脱帽しました。東京在住のアーティストである池田さんの地元へ何としても根付かないとこの作品は完成に向かわないと思われ、それは作品を事業のようにとらえられていたのですよね?
2004年からは横浜のBankART1929の立ち上げにかかわられて、今年まで走りつづけられましたね。上京のたびに何度か尋ねてお話させてもらいました。美術館の館長さんらが羨むようなアーティストの展覧会を毎年企画されていたことは、特筆に値するスゴイことです。日本美術史で忘れてはならないアーティストばかりの個展でした。終了後の重厚で詳細なカタログを入手するのが楽しみでした。勤務していた高校の卒業生がお世話になっています。2017年には同じく高校で一緒だった若いアーティストがOpen Studioに参加し作品を見ていただきましたね。取り壊されたNYKの倉庫ビルが懐かしいです。
サザンオールスターズの桑田佳祐さんが、昨年末の横浜アリーナでのコンサートで「横浜駅はニッポンのサクラダファミリア」と歌っていました。これから変わりつづけるだろう横浜を誰も真似のできない、考えつかない視点でその改変を牽引してくれると思っていたのですが、本当に残念でならないです。
人生とはどこかに誰かが示した答えがある訳ではなく、そのヒトがその人の方法で歩いて進めた時の流れのことを言うのだ!と。
唯一のあなただけの人生を歩まれた池田修さん、安らかにお眠りください。 -
感謝
池田さんに初めてお会いしたのは2007のUDSYだったと思います。この年に横浜にやってきた自分は、既に出来上がっていた創造都市のコミュニティにどう入っていけばいいのか、よく分からずにいたと思います。それでもBankART PUBに居れば、池田さんが色々な方を紹介してくれ、そのうちにこの界隈に慣れ親しんで行きました。と言いたいところですが、しばらくはそうでもありませんでした。池田さんに独特の緊張感があったからです。面白いことに、その緊張から抜け出すことが出来たきっかけも池田さんで、新・港村で結婚式=OPEN WEDDINGをやったら?と会場を提供してくれて、それが実現できたときに創造都市の一部になれた気がしたものです。それからは池田さんともうまく話せるようになったと思います。子どもを連れて研究会に参加すればベビーベッドを用意してくれたりして、意外と優しくて、それにいつも都市デザイン室の行く末を心配してくれていました。今年の都市デザイン 横浜展もその延長に提案してもらって実現できたものです。君たちのやってることはもっともっと価値のあることなんだ、と常に励ましてくれたことで、前に進むことができたし、結果的に多くの方に来てもらうことが出来て、大袈裟でなく自分の仕事にもう一度価値があるんだと感じることが出来ました。だからこそ、この喜びを池田さんとシェアできないことが淋しい。こんな地味なカタログつくったら売れないよ、と言いながらカタログの山が売れるたびに嬉しそうに積み直してくれていた池田さんにきちんとお礼が言えないのもやるせない。池田さん、展覧会、めっちゃ人来ましたよ。カタログも結構、売れましたよ。横浜の都市デザイン、池田さんに怒られないためにもシャキッとしますね。ありがとうございました。