2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
こちらへ投稿を希望される方は、右記のフォームよりご記入お願いします。 https://form.run/@letters-to-ikedaosamu
BankART1929 + 池田修追悼実行委員会
2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
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BankART1929 + 池田修追悼実行委員会
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池田さんへ
突然に逝ってしまわれましたね。あの後、私は未練がましく池田さんの通われていたクリニックの周りで樹拓をとっていました。奇跡が起きて、ひょっこり出てこられるかも知れないと思って。結局お葬式が行われて、“池田さんの体” は無くなってしまいましたが、まだ実感が湧きません。長期にスタジオを使わせていただけるようになって、まだ半年しか経っていないのに、いま会えなくなるなんて、寂しすぎます。先月私がハワイの小旅行から帰った時、いいなあ、と本当に羨ましそうにされていましたね。たくさんのプロジェクトを抱えながら、思う仕事がさらに増えて行き、どれも力を抜くことができない性格だから、いいなあ、と言いつつも、そんな計画は一生立てることがなかったでしょうけれど。透析しながら猛烈な仕事をこなし、飲むなと言われても、大丈夫だよ、と飲んでしまい、“池田さんの体” はもういい加減にしてよ、と怒るを通り越して、呆れ顔だったでしょう。でも、“池田さんの体” には悪いですけれど、無理を楽しみながら、まだまだ走っていて欲しかった、と思います。いろんな風景をBankARTで一緒に見たかったです。
長く日本を離れていた私が、地元横浜でアートのコミュニティに入れたのは、池田さん、あなたが数年前、私をBankARTのレジデンスに入れて下さったことがきっかけでした。そのおかげで、多くの新しいアーティストの友人ができ、制作できる環境もでき、私は大変甘やかされて、制作に集中することができました。BankARTに集まるアーティストはグローバルからローカルまで、有名無名を問わず本当に多様で、定期的に行われるアーチスト・イン・レジデンスのメンバーも、演劇人、建築家も一緒になった多重層のアート集団でした。そこにアートの専門家から行政の人まで、更にさまざまな人を繋いでゆく、それが池田さん、あなたがアートを使って世界に切り込んでゆくやり方だったのかな、と思います。全く違う方向性を持つ作家たち、多様なアートの在り方をそのまま受け入れる器、それをブレずにもち続けることは、大変にエネルギーのいることですし、このような振り幅を持つ集団を、私は知りません。ローカル色をしっかりと持ちながらも、世界で活躍するアーティストをBankARTに呼んでくださるのも、池田さんの力量が大きかったと思います。これから自分なしでBankARTは大丈夫か、と心配されているかもしれませんけれど、軌道に乗り出したBankARTは、残された人たちが大切に育てていくと思います。(でも大変なときには、ちょっとどこからかエネルギーを送ってくださいね。)
今、伝えたいことは、わかっていらっしゃるとは思いますけれど、そして人のプロジェクトのために懸命に時間を使ってきたにも関わらず、自分をいい人に見せるような身振りを嫌がる池田さんは、そんな気持ちを公の場で言われることは、かえって嫌かもしれませんけれど、一度だけですから、素直に受け止めて下さい。池田さんは愛と情熱を持って、とても大きなプレゼントを横浜に残してくれました。私も、その宝物の種を頂いた一人として、心からお礼を言わせてください。ありがとうございました。
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代表作はできたか?
池田さんはたまに電話をくれますね。
用事もそこそこに、「代表作はできたか?雑誌掲載はまだないのか?」って。「すいません、まだっす」っていつも答えていました。
池田さんとの出会いは、僕が学生時代に所属していた研究室で、BankART桜荘やBankART妻有のプロジェクトをやっている時でした。妻有には、施工補助として参加していました。なぜか僕だけ寝床がなくて、みんなが飯食う部屋で寝ていて、一番に起きて仕事をしていた池田さんと、寝起きに目が合うというファンキーな朝が2週間続きました。
とはいっても僕は静かにしていたので、きちんとお話させてもらったのは、ハンマーヘッドスタジオへの入居の時でした。「君たちか、曽我部さんの弟子は!」というのが第一声だったことを、今でも覚えています。ハンマーヘッドスタジオは僕らの創業の地です。僕らはまだ若く、なんの経験もなかったのですが、abanbaの番場さんご指名で第二期の副区長として、オープンスタジオなどいろんなことをやらせてもらいました。
池田さんに怒られすぎて、萎縮していた僕は振り切って、ため口で話していました。一回地雷覚悟でため口で話したら、何も言わないので、あれ?行けるのかと思ってずっとため口でした。北風さんに「お前の池田さんへのため口、なんなん?ひやひやするわ」って言われていましたし、曽我部さんにも「なんで、ため口だよ」って言われていました。今だから謝ります、ごめんね池田さん。
ハンマーヘッドの日々は刺激的で、楽しい日々でした。僕はスタッフ時代、シェアオフィスで仕事をしていて、シェアオフィスの魅力について理解しているつもりでした。アーティストとシェアをする体験は、僕がもらった一番大きなものでした。撤収が近づく頃には、この経験を生かして、次の事務所を作らねばと思い、ハンマーヘッドのメンバーと旧劇場を立ち上げました。池田さんと一緒にいれたからこそ、横浜のことを深く理解できたし、自分たちの拠点が存在感を発揮することの重要性を教えてもらった気がします。
ハンマーヘッドが終わった後も、何度か仕事くれていました。STATIONやSILKの照明の図面書いたり、柳さんの作品の図面書いたり、KAIKOのシンクの図面書いたり、てか食と現代美術で屋台を頼むって言ってましたよね?まだ依頼来ないけど。電話ください、池田さん。代表作はできてないけど。
ありがとうございました! -
思い出
横浜バンクアートのオープニング初パフォーマンス公演をやらしていただいた時から、声をかけてくださりニブロールはその後毎年、色々やらさせていただきました。
池田さんが横浜に来てからは顔を合わせない年などありませんでした。なので、今でもいるように感じてしまいます。そんな中でも、私が横浜をはなれ韓国ソウル国立美術館のレジデンスで1年ちかく韓国に滞在して孤独な日々を過ごしていた時に、もう日本に帰りたいと泣き言を池田さんに言ったことがあるのですが、そんな時、池田さんが視察で韓国にきてくれて、韓国で沢山のアーティストや学芸員を紹介してくれました。そのおかげでどうにか韓国での日々も乗り切れたことを思い出します。私は今でも池田さんの優しさだったと思っています。
人とのつながりを考えるとき、どうしても精神のことを考えなくてはいけなくて、それは科学的には考えられなく、計算もできないのです。
私はこれからも思い出してゆくだろうと、時がたつにつれて、池田さんとの思い出を思い出していくだろう。アートで社会と地域とつながってゆくことがどんなことなのかをみていて色々なことを教えてもらいました。横浜にとってもバンクアートがあるか、ないか、は本当に大きな存在でした。私たちは、これからの現実の生活の中で池田さんとの様々な記憶を呼び覚まし、生きてゆかなくてはいけません。
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池田さんへ
池田さんが逝ってしまったと聞いて、とてつもない喪失感です。
これからの自分の人生の中で何かを書く目的の半分を失ってしまったような淋しさです。池田さんの情熱がとうとう身体を追い越して、100年、1000年先まで走って行ってしまったのでしょうか?「100年たったら、その意味はわかる」とは、寺山修司の映画「さらば箱舟」の中のセリフですが、池田さんは100年どころか1000年後も遣っているか?を問い続けていたのですから。
2018年BankART Studio NYKの最後のパーティでは一緒にお皿を洗いましたが、裏方の仕事も手を抜かない働きぶりに心配にもなりました。翌2019年夏、BankART Stationに突然お邪魔した際には池田さん自らしらすパスタを作ってくださり、一緒に食べたのがうれしい時間でした。昨年2021年にはコロナ禍にハロウィンのコンペに誘って頂きましたが、ポンコツ過ぎて郵送でのやり取りにつき合わせてしまい、最後までポンコツで申し訳なかったです。あれが池田さんとの最後の会話になるとは…。
出会った時期だけは古いけど、一番ポンコツな私を見捨てずにいてくれてありがとうです。
池田さんは、出会ってから37年間、会えない時でもずっと心の拠り所でした。
この言葉を、お伝えできなかったことが悔やまれます。
「こんな話をしておけばよかったな」ということばかりです。初めて池田さんと出会ったのは、1985(S60)年「ダンボール合戦in原宿」の時です。「面白い人がいる」と静岡のアングラ劇団の友人Sさんに紹介され、そのまま雨の中、ダンボールをかぶって竹下通りをゲリラ行進しました。そもそもアングラ気質の私には「しっくり」きましたし、すごく頭の良い人なのにダンボールをかぶる池田さんを「信用できる人」と確信しました。以来、その確信はゆらぐことはなかったです。
1985年のバブル時代、私は広告代理店で仕事をしたり、池袋西武デパートのショウウィンドウ内に西武劇場オープンのイラストなどを描いたりしながら、同時に美学校の赤瀬川原平氏の考現学を受講し、更にセツ・モードセミナーにも通うという無節操ぶりでした。考現学受講について池田さんに相談したところ「今更トマソンをやらなくても良いのでは?」と言われてしまいました。結果そこで知り合ったアングラ劇団のOさんの友人である青谷さんが、後にPHスタジオのメンバーとなったのですから不思議なものですね。
そして1985年はPHスタジオの家具φ展もありました。「壊しながらつくる」のが、当時「創ることへの罪悪感」を感じていた私にはとても痛快で、そして「美しい」と感じました。「壊しながらつくる」は「建てない建築」にも通じるような。PHの作品の中の、引き出しがライトボックスになっている白い小さなテーブルを、池田さんからもらい受けました。
1986年三軒茶屋のラーメン店耶馬溪(やばけい)の内装工事の時、開店当日の朝、急遽店名のカッティングシート貼りを(私の友人)W君に頼んだのですが、W君もまた、後のPHメンバーとなる秋山伸君(当時は芸大建築科)を紹介してくれましたね。耶馬溪の頃は、リサイクル業者の社長さんに池田さんは気に入られて大きな倉庫で酒盛りして楽しかったですね。
1987年、横浜みなとみらいでのプロジェクト「ネガアーキテクチャーNo.2」では、古い料亭の真ん中に風が通り抜ける空間をぶち抜いたのですが、断面をフラットに仕上げる方法として「合板を貼る案」と「手作業で壁を削り取る案」があり、無知で無謀な私の「手作業案」を池田さんが採用してくれて、そのためにみなさんにはとんでもない苦役を強いてしまいました!毎日申し訳なかったです。
1989(H1)年「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」の恵比寿事務局でも安定のポンコツぶりを発揮する私に、池田さんは「オープニングパーティや講演で着るためのブレザーとズボンの上下を調達せよ!」という特命を下しました!みなさんが事務作業に追われる中、私は池田さん専属のスタイリストとして大きなサイズの上下を探し回りました。
1993(H5)年、バブル崩壊の後始末を終えて再び上京し、小説のようなもの(物語のない物語)を書き始め、厚かましくも池田さんに読んでもらいました。すると池田さんは森敦の「意味の変容」を貸してくれました。森敦は、執筆は山手線の中で書いていたというエピソードは好きでしたし、ダム建設の技師だったというのは、後のPHの「船、やまにのぼる」にも通じるような? そして私の2作目がその年の早稲田文学(第10回)に拾ってもらい、発行人で仏文教授の平岡篤頼先生に教えを給うという幸運に恵まれました。この時だけは池田さんも喜んでくれたのでホッとしました。この時書いた小説が、スロープを造る人の話でした。車椅子を押す生活の中でスロープを意識するようになったからですが、決して福祉とか社会派の視点ではなく「スロープって人類にとって車輪みたいに不思議な存在だな」と思ったのです。そしたらその後BankART(旧富士銀行)でスロープをつくる「橋をかけろ!プロジェクト」というのがおこなわれていたのですね!シンクロニシティじゃないけど、こんなふうにPHや池田さんと時間差で再会しているなんて!池田さんが蒔いた1000年分の種がどんな物語になっていくのか?物語はまだまだ続くのですね。
池田さんと出会うことで輝いた5000の星々の星座の中に、残念ながら私はおりませんが、池田さんの視界をほんの少しのぞき見させてもらえたことは幸運でした。
この先も、池田さんの遺した物語とリンクしていきたいと思います。 -
池田さんとつくった舞台
池田修さんと初めて会ったのは1985年、私が出演した『水の駅』(作・演出 太田省吾)公演を観に来てくれた時でした。練馬区氷川台の劇団「転形劇場」の本拠地T2スタジオでの上演で、終演後のロビーで挨拶したのを覚えています。
池田さんは、PHスタジオの人として名前だけ知っていました。川俣正のインスタレーション『工事中』に参加したり、彼らの「都市の中で美術と建築を横断する」という活動に、私はとても興味を抱いていました。その後何度かお話しする機会がありましたが、棲息地が違うこともあり疎遠になっていました。その池田さんと再会できたのは、BankARTのおかげです。2004年新聞でBankART1929の記事を見ました。横浜の古い銀行の建物をアートスペースにリノベーションしたという、「なんてステキ!」と飛びつきました。私はARICAというグループで演劇活動を継続していましたが、当時どこか劇場でないスペースで公演をしたいと思っていたのでした。
演出家の藤田康城と一緒にBankARTに出向き、迎えてくれたのが池田さんでした。資料を持参して過去作品の説明をしたりしましたが、池田さんはさっと聞き流す風で、「次に何をやるのかが重要、企画書を見て考えます」と実にあっさりと帰されました。
テクスト担当の倉石信乃と藤田と次回作を練りました。元銀行での上演ということでタイトルは『Kawase』、貨幣経済がテーマの作品となりました。池田さんはこの企画をとても気に入ってくれ、それどころか協力を惜しまず、一緒に作品をつくったと言えるほど。舞台で電動車椅子を使いたいというと、知り合いから特別仕様の電動車椅子を借りてきてくれました。また舞台美術のための廃品を集めなければならなかったのですが、とっておきの廃品の集積場所に連れて行ってくれたり、音響に「みなとみらい線」の構内に流れているカモメの鳴き声を使う許可をとってくれたり、なんと客席作りまで自ら手を貸してくれたのです。そんな時の池田さんはイキイキとしたアーティストの顔になり、作品創造の過程を一緒に楽しんでくれているようでした。もともとPHスタジオの作家、クリエイティブな現場が好きなんだなぁ、と感じました。一方で池田さんはいろんな人との出会いの機会を作ってくれました。おかげで、美術家の高橋永二郎とARICAのコラボレーションは15年以上続いています。
また池田さんは優れた仕掛け人でもありました。「首くくり栲象さんとARICAで一緒に作品をつくらないか」と提案を受けた時には、我が耳を疑いましたが、おかげで『蝶の夢』という作品が生まれました。2009年越後妻有のBankART主催イベントでの初演から始まり、何度も再演を繰り返し、最後は2016年ジャカルタの演劇祭に招聘されました。BankART関連の会場でのARICAの公演は、7作品を上演、再演も含め10公演27ステージになります。2004年からの18年間BankARTと共にあったと言っても過言ではありません。横浜の街は池田さんによって、芸術の息を吹き込まれたと思います。歴史的建造物や廃墟や倉庫などを芸術に再利用するということは、欧米では実践されていますが、日本では概念は入ってきていても、なかなか成功している例を知りません。
眠っていた空間が池田さんの手に渡ると、抜群のセンスでアートスペースとして息を吹き返し、とたんに躍動し始める様を見てきました。そしてその躍動は、閉じられた空間にとどまらず、外へと開放されていきました。BankART NYKではロビーに美術作品を展示し、ブックショップも併設、カフェを遅くまで開いて、アーティストだけに限らず様々な人、地域の人たちの豊かな交流の場となっていました。このロビーでARICA『Kawase』映像もずいぶん長い間流していただいたことを、心から感謝しています。BankARTの運営は、池田さんのアーティストとしての理念や感性に支えられていたのでしょう。まさに「都市と建築と美術の共生」という、PHスタジオでの仕事が活かされていた、いや、BankARTはPHスタジオの作品であり実践と言えるのではないでしょうか。同じPHメンバーの細淵太麻紀さんが今後BankART1929の代表となるとのこと、長年労苦を共にしていらしたからこその経験が発揮されると信じています。
いつだったか、池田さんがKAIKO近くのデッキから「まもなく、桜木町からのロープウエイの運行が始まるんだ」と指差し、嬉しそうに見つめていました。そのロープウェイに乗ることができたのでしょうか? 横浜に出向く時は、いつも池田さんを尋ねていました。いつ行っても、池田さんはそこにいました。しばらくは横浜に行くのが辛くなりそうです。