2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
こちらへ投稿を希望される方は、右記のフォームよりご記入お願いします。 https://form.run/@letters-to-ikedaosamu
BankART1929 + 池田修追悼実行委員会
2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
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BankART1929 + 池田修追悼実行委員会
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2022/03/24 池田修さんのこと。
昨夕、2022/03/23にBankART1929の公式発表があった。メールが届いて、公式サイトに亡くなったことが書かれていた。実際はその1週間まえに小脳出血で亡くなっていたようだ。とりいそぎFacebookに投稿した。
BankART1929から池田修さんの訃報が届いた。MCT初回の1990年の参加アーティスト(PHスタジオ)のリーダーでもあった。80年代からのつきあいです。最後に会ったときは、そのすこしまえに体調を崩したことも良き担当医を得て回復し、あいかわらずのあの雰囲気だったので、安心していたところでした。
(中略)
池田さん、ちょっと早いんじゃないの。寂しいです。
細淵さん、たいへんでしょう。福岡から応援しています。
(2022/03/23)わたしが池田さんに最後に会ったのは、去年(2021年)11月14日に「BankART Station」での展覧会(「グレートリセット・スモールリブート ~その後をつくる創造力」主催 一般社団法人クリエイティブクラスター, キュレーター 岡田智博)に寄ったときだろう。池田さんはたまたま受付に居て、チケットは持っているの?と案じてくれた。例によってこちらのあまり話は聞いてなくて、ひとりでダダダと話をして、中を見てよ、あ、こちらが新人だから、よろしくね、と。それが最後の会話だったのかな。
そのすこしまえに体調を崩して入院し、治療を受けていたのは聞いていた。治療のことで詳しく話をしたこともあるけれど、担当医に対してもそうとう言いたいことを言っているようだった。わりとたいへんな持病になるから、くれぐれも気をつけてほしいと伝えたつもりだったが、そのときももう山は越えたから、それなりに気をつけるから大丈夫、と躱していた。
わたしが池田さんに最初に会ったのは、1980年代後半で、おたがい20代だったころ。川俣正さんの手伝いをしているPHスタジオのメンバーとして紹介されたのだろう。川俣さんはちょくちょく福岡に来て、IAF芸術研究室(現 IAF Shop*)で版画やマケットをつくっていた。池田さんはその頃からガタイは大きくて、でも話はとても細かかった。当時わたしは理系の学生だったが、それをすごく面白がってくれたのを覚えている。その感覚は最後に会ったときまで変わらなかった。兄妹の関係みたいに接してくれていた気がする。
2004年に横浜でBankARTをスタートさせて、いいことも悪いことも、いろんなことがあったのだろうと思うけど、わたしの中ではあまり印象が変わらない。だから、大病をしたとき、それをきっかけに仕事のやりかたを変えたら…と思ったりもするけど、やっぱり止まらなかったのかもしれない。
写真は「ミュージアムシティ天神」(1990年。初年度表記はナカグロなし)のときイムズの屋上で展示した、PHスタジオの作品。様々な椅子を素材にしたインスタレーション。この作品制作以外に彼らは、数十ヶ所もある各展示箇所の助っ人や掃除をおこなってくれた。初年度でスタッフの配置がスムーズでなかったときに、影で一所懸命に動いてくれた。この話はほかでは出てこないだろうから、ここで書いておく。
あ、池田さんには、文句を言わないといけないこともある。2012年ごろだか「朝鮮通信使」プロジェクト関連で対馬か釜山に行く途中、福岡に立ち寄ってくれたことがあった。そのときに「朝鮮通信使は福岡に寄っていないから、このプロジェクトに福岡は入れない」って言われたのだった。わたしは随分とこれを根に持っていて、すでに WATAGATA Arts Network (福岡と釜山のアーティスト交流プロジェクト https://watagatainfo.wordpress.com/)をスタートさせていた時期だったし、いずれ必ず福岡も連携させる、と心に誓った。まだ果たせてないけど、忘れてないからね、池田さん。(ちなみに実際の朝鮮通信使は、九州本土には上陸せず、福岡藩[黒田藩]が相島に受け入れ施設をそのたびに建造し、もてなしていた。通信使が立ち去ったあとには壊して、秘密を守っていたようである。)
たぶんそのとき(2012年ごろ)池田さんが福岡大名に昼過ぎの15時くらいに来たとき、どっか飲めるとこない?って言ったので、「一膳めし 青木堂」さんに連れて行った。焼酎のお湯割りと、オカズを棚から取るシステムがお気に召したようで、上機嫌だったなあ。池田さんの魂は、いまごろまだ横浜界隈にいて、あれをやってないこれをやってないって駆けずり回っている気がする。ときどきは対馬海峡にも来ているかもなあ。もう身体は現世にはないんだから、そんなに急がないで大丈夫ですよ。釜山の友人たちにも、こんど、話をしますから。
2022年3月24日「note」投稿より編集
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はっきり自分の意見を言う方だった
池田修さんと会話したことはなく、ただ一度だけ、2017年9月6日の北仲COOPで開催されたトークライブの最後、自由討議で池田さんに言葉をぶつけたことがあった。池田さんほか5,6名の方が前に並び、50名をはるかに超える聴衆はほぼアーチストだった。
前に並んだ方々の発言はこれまでの活動実績と現状報告だった。自由討議になっても手を挙げる者はなく、ほとんどアート関係者の馴れ合いのような空気に我慢がならなくなり、僕は手を挙げた。
「みなさんはさまざま活動実績を話されたが、ではこの横浜の街を一般市民が歩いていてどこにアートを感じるだろうか。BankARTのエリアを離れれば、以前と変わらないアートに無縁の横浜ではないか」
池田さんは答を並んだ方々に振ったが、はかばかしい反応もなく、池田さんが最後にまとめとして丸っこい顔をわずかに苦くゆがめて言った。
「平塚市は人口20万、府中市も人口20万。それぞれ美術館を持ち、懸命に市がそれを支えている。ひきかえ横浜市は人口370万の単一最大の自治体でありながら、めぼしい公的美術館は横浜美術館ただひとつ。横浜市のアート行政はいまだ貧しい」
この言葉でトークライブは終わった。池田さんの人柄についてまったく知らなかった僕は、堂々とはっきり意見を言う方だと嬉しく、以後、言葉を交わすことこそなかったが隠れた応援団になった。だから日本郵船の元倉庫から撤退せざるを得なかったときは本当に悔しかった。でも、アーチストに安住の地は不要なのかもしれない。だから池田さんは次々としたたかに散り、したたかに生き延びてみせたのかもしれない。そしてもっともっと攻めて、時間をかけても横浜をアートの街へと変えてゆきたかったに違いない。そう信じられる人だったことを多くの方が語っている。
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池田さん、
ガッポガッポと鳴る靴の音
キィーンギョーンチューンルルルと
響く電動のこぎりの音
腕から汗が滲み出すほどの暑さ
腰掛けた縁石や
作品「夏の虫の家」に出来た
天窓から見えた空は高く青く
太陽に顔を向けていると
開け放たれた軽やかな感情が
頭の天辺から突き抜けて行きました
通り雨の後は
雑草の青々とした薫りを存分に吸い込み
雨に打たれて濡れた帽子から垂れる雫を
眺めていると
別世界に居るようでした。
夕立を避けて木立の一群の下で
白く塗られていく「夏の虫の家」を見ていると
傍らから
池田さんの声がしました。
「これがアートなんですよ
建築屋さんが使う材料や同じ道具を使って
作っていても
出来上がってくるものが違うでしょう?」
あの夏の日に青く翳るひとときの夕闇から
立ち上がっていた、できたての白い家を
胸を打ち震わせて見ていました。
◇高橋幸宏の「6月の天使」を聴くと
雨の中で見ていた白い「夏の虫の家」を思い出します。
(コピペして検索にかけるとYouTubeに飛んで聴くことができます。)
↓
https://youtu.be/Jz4qzr_nHTc
◇昔、池田さんに好きな音楽は何ですか?と訊かれたのに答えられなかったマイク・ネスミスの「シルバームーン」のアドレスを貼っておきます。コピペして検索してくださいね。
↓
https://youtu.be/zSHjOzgn6z4
P.S
「えびすー猫の抜け道展」の頃、取り壊し前の代官山の「同潤会アパート」でみつけた生まれたての子猫~マメは23年間一緒に暮しました(1996~2019)
空の向こうで会うことがありましたら、
頭を撫でてやってください
池田さんはアートと違う仕事を選んだ私にも課題を下さいました。未熟な時にご注文を頂きました。あれから花材を家に持ち帰って何年も仕事とは別時間にも練習を重ねることを教えて頂いたのに池田さんに見て頂くことを臆したまま時間を過ごしてしまいました。見ていただきたかったな。
幾つになっても成長することができると
教えて頂きました。ありがとうの言葉が言い足りなくて苦しいです。
ありがとうございました。
いつか空で再会できる日まで… -
池田さんへ
池田さんと初めてお会いしたのはPH時代でした。PHファンだった私は、一緒に仕事ができないかと考え、当時会社員だった私は、PHにある仕事を依頼しました。某大手ガス会社への企画書の制作で、それはとても素晴らしい内容だったのですが、プレゼンは通りませんでした。でもそれをきっかけに池田さんとは信頼関係が結ばれたと思っています。
横浜でBankARTがスタートしてからの超人的な仕事ぶりはここに書くまでもありませんが、事務所で夜遅くにひとりギター片手に歌っていた姿も印象に残っています。展示を観に行くと、池田さんはニコニコと「元気?いま、何やってるの?」と気さくに話しかけて、気配りしてくださいました。
私はschoolの写真ワークショップに一時期通い詰めた日々が懐かしい。
自費出版したアートマガジンvoid chicken も置いてくれました。池田さんともうお話しできないという事実にまだ慣れません。もっとお話しする機会が欲しかったです。池田さんの不在は、ショックで、言葉では言い表せません。まだ近くにいる気配を感じるのはなぜなのでしょうか。PHからずっと観てきた展示は忘れません。ありがとうございました。
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破天荒な先生
久しぶりに横浜に行く予定が出来たので、横浜といえば必ず思い出す池田先生はお元気だろうか?と気になりました
そこでBankART1929のHPをチェックしたところ、池田先生の訃報を知りました池田先生は私にとっては先生です
名古屋芸大の大学院生の頃、先輩から面白い授業があると教えてもらい受講しました
その授業の先生が当時非常勤講師をされていた池田先生でした
受講者は私含め2名という予想外にとても少人数だったのですが、それも良くて、池田先生と濃い時間を過ごせたように思います
学校で授業を受けた記憶はほとんど無く、授業が始まるやすぐに横浜で授業をしよう!と勢い良く連れ出されたように記憶しています
横浜へ来ると、先生と生徒3人で自転車であちこち周り案内して下さったように思います
自転車に乗る先生の後ろ姿がかすかに記憶に残っています
池田先生はとても優しく懐の深い先生でした
ご飯を食べさせて頂いたり、泊まる場所も用意してもらい、近くにお風呂屋さんがあるからとそのお風呂屋さんのチケットもプレゼントして頂いたり、滞在中は親戚の叔父さんのように優しく親しく気にかけて下さいました
お忙しい様子で仕事もしながらの不思議な授業でしたが、現場に入れてもらうことで、時にはピリピリした空気だったり先生の仕事に向かう姿をすぐ側で見せて頂けて、授業以上の忘れることの出来ない経験でした
横浜トリエンナーレがあるから遊びにおいで、宿舎に泊まっていいからと言って下さった先生に甘え、
横浜トリエンナーレの時期に同じ大学の同期の友人と先生を訪ねました
その時もまた授業の時と同じように優しく、トリエンナーレにも招待して頂いたり、そして「この子僕の教え子」そう言って色々な方に紹介して下さったことを思い出しました恩師である池田先生にまたお会いしたかった
とても優しく破天荒な池田先生の教え子の一人として、感謝の意を込めてここに記します
ありがとうございましたご冥福をお祈りいたします