2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
こちらへ投稿を希望される方は、右記のフォームよりご記入お願いします。 https://form.run/@letters-to-ikedaosamu
BankART1929 + 池田修追悼実行委員会
2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
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松本市旧第一勧業ビル保存活用のご報告
国宝松本城の表玄関三の丸、通称大名町通りの一角に昭和12年(1937)に建築された旧第一勧業ビルがあります。松本城を中心とした街並みや街路樹と調和した昭和初期の表現派と称される建築です。20年程前に銀行統合により空きビルとなり、解体・マンション建設計画の情報が流れました。当時私は松本のまちづくりに係わっていたこともあり、横浜市で歴史的建造物を利用した文化芸術の実験プロジェクトが行われている事を知り、先ずは見学したいと思いBankARTを訪ねました。
その時に対応していただいたのが細淵様で、突然の訪問にもかかわらず池田様に繋いでくださいました。ご本人から開館前の館内をご案内いただき、旧第一銀行内のインスタレーションや改修工事中の旧富士銀行保存活用の話を伺いました。その後、まちづくり活動のメンバーと改めて訪問し活用事例の1つとして市民に紹介する事がきっかけとなり「旧勧銀ビルを守る市民の会」が立ち上がりました。保存運動は数年続きましたが結果的に実を結ぶことができ、現在は「登録有形文化財」に登録されブライダル施設アルモニービアンとして利用されています。20年前に池田様に対応していただいた事で松本の宝の1つが守られました。生前に、このご報告とお礼が出来なかったことがとても残念でなりません。
ご冥福をお祈り申し上げます。 -
池田修さんへの手紙
池田修さんとは、昨年秋に少し長電話をさせて頂いたのが最後となってしまいました。寂しい気持ちでいっぱいです。その際に、池田さんが横浜でBankART1929をスタートさせた初日の朝の話をされていたことが印象に残っています。遡ってみると、私と池田さんとお付き合いさせて頂いたのは、1987年「横浜パフォーマンスアートフェスティバル」の頃からだったような気がします。私は大榎淳さんと参加していて、そこでPHスタジオの皆さんとお目にかかりました。その頃、ビデオアーティストの加藤到さんに誘われて、「ネガアーキテクチャープロジェクトNO.2」を拝見したことも覚えています。建築とアートと身体(記憶)が関わる不思議な空間だったと思います。その後、私が赴任した名古屋芸術大学では、茂登山清文先生が池田さんに非常勤講師をお願いされたことが発端となり、造形実験コースの授業でお世話になりました。夜遅くまで授業の準備をされていた記憶が残っています。また本学B棟改修工事の設計を引き受けて下さったり、名古屋港での一連の活動を経て、名古屋芸術大学の大学院の「都市造形演習」という科目もご担当いただいていました。また、本学卒業生の武藤勇さんをはじめ、多くの学生、OB、OGがお世話になっています。この場をお借りして心から御礼を申し上げます。いつも現場で、若いクリエーターを応援されていて、アートと社会が繋がるビジョンを力強く話されていた様子が思い出されるばかりです。
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インダストリアル・デザイナー
池田さんに最初にお会いしたのは私がまだ大学生の時、BankARTを横浜でスタートされた頃に私が大学を卒業するタイミングで、お話をする機会を得てからです。
第二回の横浜トリエンナーレ直前でイギリスへの留学を決めていた私に対して「これから横浜面白くなるのに行っちゃうのか、寂しいな」とおっしゃって頂いたのを今も覚えております。
幼なじみでデザイナーをやっている北風の紹介でした。
後ろ髪をひかれる思いで渡英し、しばらくイギリスで過ごした後で、(途中一時帰国中にさくら荘でのレジデンスを実現して頂けたりも致しました)最終的に本帰国したのが2012年でした。
就職すべきかどうか悩んでいたタイミングでハンマーヘッドスタジオがオープンするということで、お声がけを頂き、入居する事ができました。
その流れで結局自分でハンマーヘッドスタジオ内に事務所を構え、そのままそこで合同会社として起業し、2年間のハンマーヘッドスタジオでのインキュベートを経て、現在私が馬車道で経営している株式会社N and R Foldings Japanへと至ります。ハンマーヘッドスタジオでの2年間は夢のようなかけがえのない時間でした。
池田さんのお誘いが2012年のあの帰国のタイミングでなければ、あの素晴らしい場所を池田さんが企画していなければ、多くのクリエーターがあの素晴らしい場所で池田さんの元に集っていなければ、今の私や当社は無かったと思います。
たくさん怒られもしましたが。今では良き思い出です。
私の人生の節目で絶妙なタイミングでサポート頂き、様々事に関わらせて頂いた事、道筋を示してくださった事に感謝の気持ちでいっぱいです。これからもっと成功して横浜のこの素晴らしいカルチャーを盛り上げ池田さんにも恩返しをしたいと思っていたなかで、池田さんの訃報に触れ驚きと悲しみと喪失感でいっぱいです。
正直まだ池田さんがこの横浜にもどこにもいらっしゃらない事が信じられません。
大きな太陽を失ったようなそんな感覚です。
池田さんが残されたここ横浜のクリエーティブムーブメントの中からこれからも、私なりに新しい挑戦を続けていくことが最大の恩返しであると信じて弛まず作り続け、発信し続けていこうと思います。
本当にありがとうございました。 -
まぼろしの作品を求めて
僕が池田さんと会ったのは、2002年に岡山県の山陽町で開催された「ニュータウン・アートタウン展」でのことでした。池田さんはPHスタジオのメンバーとして、僕は、この時に結成した「ノーヴァヤ・リューストラ」というアートユニットのメンバーとして、この展覧会に参加していました。
僕は、ひと夏のアートセラピーのつもりで創作に没頭していました。制作現場で、池田さんからはいろんな話を聞きました。音楽畑の僕にとっては全てが新しく、新鮮で、彼の話に耳を傾けたことを覚えています。
その後、灰塚の現場を何度か訪問した時には、料理をして、お酒を飲みながら、楽しい時間を過ごしました。
2005年には、BankART1929で開催された「BankART Life "24時間のホスピタリティー" ~展覧会場で泊まれるか?~」に、ノーヴァヤ・リューストラとして参加しました。その時の池田さんとの会話で、「ノーヴァヤは名前も良いし、コンセプトも面白いから、もっとやってよ。」と言われたのを覚えています。それからずっと、心のどこかで池田さんへの応えを考えているのですが、まだ実現していません。実際に見てもらうことはできなくなってしまいましたが、見守っていてくださいね。 -
Bゼミスクールの同期生として
池田さんの早すぎる訃報に接し、大変驚いたと同時に悲しみでいっぱいになりました。
かつてBゼミスクールの同期生でした。私は武蔵美を卒業して1年だけ籍を置いていました。
当時の彼は、知的でシャイな人という印象でした。PHスタジオでのご活躍の時期までは存じ上げていました。
その後、私は別の学問領域に導かれてPh.Dを取得して、中小企業研究家と大学教員になりました。
その後の交流は途絶えていましたが、ご活躍の様子は度々耳にしていました。まさか最後に彼の消息を訃報で知るとは予想もしていませんでした。
お互いに若くてキラキラしていた時代は完全に封印されましたが、天国で当時と同様のシャイな笑顔を浮かべているかもしれません。
合掌。