2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
こちらへ投稿を希望される方は、右記のフォームよりご記入お願いします。 https://form.run/@letters-to-ikedaosamu
BankART1929 + 池田修追悼実行委員会
2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
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「ひっくりかえす力」から「都市に棲む」へ―池田修さんの原点
突然の訃報に言葉もありません。64歳なんてまだまだ現役の年齢、早すぎるよ、池田さんというのが正直な思いです。PHスタジオの時代からBankARTまで、かれこれ40年近く、さまざまな壁を突破するたくましくリアリティのあるお仕事ぶりに接して、多くのことを学ばせていただきました。
池田さんともっとも密にやり取りがあったのは1990年代半ば、美術館学芸員の小生が「インスタレーションって何だろう?」という街中での展示実習付きの美術館講座を企画・担当した頃です。受講者それぞれが公園やまちをうろうろして気になる場所を見つけ、自分なりの表現を用いてその場所で一日だけのインスタレーションを試み、グループで束の間の野外展・まちなか展を実現し記録する、という流れです。5年間続いたこの講座の第2回「都市と自然と美術館」(1993)、第4回「都市へのフットワーク」(1995)にPHスタジオ(当時は池田修さん、中川達彦さん、小杉浩久さんの3人組)にお越しいただき、動機づけの講義から、励ましや現場でのアドバイス、記録作成まで数ヶ月にわたってお世話になりました。
この2回の講座でいただいたお題「ひっくりかえす力(インスタレーションについて)」と「きちんとしたゲリラ」はその後の私自身の活動の指標ともなった忘れ難いものでした。(おかげで学芸員をしながら課外活動に多くの時間を割くようになってしまいましたが)ひっくりかえす力(インスタレーションについて)
デュシャンは、西欧において制度としての美術の中に日常を、過激に、しかもエレガントに導入した。70年後に日本に生きる私たちは、日常という過激な文脈の中にある強さをもって美術を設置する(インストール)ことが可能だろうか?きちんとしたゲリラ
過激なことや、へんなことをするときは、新宿のホームレスの人達のように、できる限りきちんとしていた方がいい。その方が、より長く生き続けられるからだ。権威に向かってものをいうときも、ぼろは着てても背筋を伸ばして大きな声で言いたいものだ。
重要なことはとどくことだ。この百年間、「アジア」と「地方の知性」と「自然」からエネルギーを奪い取ることで成立してきた私たち(都市)自身を覚醒させるためには、私たち自身がより深く都市に入り込み、思索し、勇気をもって発言していくことだ。宿主の不興を買わないためには、自分の体を少しばかり変形し敵意を歓待に変え、都市の経験を蓄積していくこと、そしてきちんとしたゲリラを続けることだ。1995年秋、大宮市の市制55周年記念事業として「ゆうもああーと大宮55 風の通り道展」が開催され、筆者がキュレーションを担当、PHスタジオにも招待・出展していただいた。佐藤時啓、橋本真之、古郡弘、間島領一、松本秋則ら12名の気鋭のアーティストが大宮駅周辺の市街地に作品をインスタレーションする企画で、PHスタジオは、駅至近のきわめて対照的な二つの空き地を選び、それぞれに《空き地の家(茶人のための)》、《空き地の家(掃除人のための)》と題した青天井の何とも不思議な建造物を設置した。作品コメントを引いてみよう。
《空き地の家(茶人のための)》、《空き地の家(掃除人のための)》
空き地に建つ家は論理的に存在しないから基本的に誰のものでもない。猫が昼寝をし、子どもが走り、老夫婦が散策する。存在そのものがパブリックなものだ。
空き地に建つ家の主は姿が見えないが、迷宮入りの都市の物語への水先案内人だ。禅寺の小坊主のように毎日掃除していたかと思うと、ときおり風流に茶会を催す。世界中の空き地を兎の穴を通じてネットワークする。
「空き地の家」とは都市に棲み続けようとする人々の小さな勇気とレジスタンスだ。この言葉もPHスタジオのスタンスを伝え都市に棲み続ける覚悟、池田さんの原点を示すものでしょう。同時にこの時期は、灰塚アースワークプロジェクトの進行期で、PHスタジオにとっても「船をつくる話」という類例のないプロジェクトが始動した充実期でもありました。
後に横浜に拠点を移し、2004年には、BankART1929の立ち上げと企画運営に関わるようになります。その後の目を瞠る活躍は多くのみなさんがご存知のことでしょう。経験や年齢を問わず本気のアーティストを叱咤・激励・支援する。韓国や台湾などアジアのアーティストの交流のチャンネルをつくる。全国のアートNPOやアーティストグループをつないで、活動の活性化を図るなど、現場の様々な困難を乗り越えながら、日本の現代アートシーンに常に新たな場を切り開く活動を展開してこられました。日本の現代アートにもっとも必要とされる存在の一人でした。本当に惜しいことです。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 -
リレーする仕事
自身がはじめて手弁当で企画した展覧会「Reading Room」(2005)にはじまり、ITベンチャーである日本技芸(現rakumo)勤務時代にOff Nibroll 『public=un+public』のDVD化事業(2005、これは岡崎松恵さんにご担当いただきましたが)、任意団体時代(実質ひとりだった)のノマドプロダクションとして企画した「都市との対話」(2007)、UNDER35 GALLERY「幸田千依展」(2013)など、自らの初期の活動で重要になる企画では大変お世話になりました。
「Reading Room」では、勤めていたカフェギャラリーでくすぶっていた自身の企画をいきなり共催の形式で取り上げていただき、またいつでも企画を持ってきて欲しいと運営面も含めて評価いただいたこと。「都市との対話」をうけて、翌年からまちなかである寿町を舞台に立ち上げた「KOTOBUKIクリエイティブアクション」もたくさん応援いただいて、度々ご紹介の機会もいただいたことなどが大きな自信につながりました。一方で、プロモーションや展示の方法などについて厳しくご意見をいただくこともありました。自身も頼まれ仕事が増えていく中で、近年は駆け出しの頃のオルタナティブ精神を問われることもありました。
思い返せば、BankARTの事業や自身の企画を通してだけではなく、その合間合間にたくさんのお話しを聞かせていただいたことが、自身にとって非常に重要な糧になっています。どのような考えを持ってBankARTが事業を行っているのか、横浜市や様々な現場のプレイヤーをどのように評価しているのか、などなど。自称「創造都市横浜の申し子」として仕事をしていくなかで、何事にも代え難い経験をさせていただきました。
東京や各地で仕事をするようになってからは、お訪ねする機会も減ってしまい近況をご報告することができないままのお別れとなってしまったことが悔やまれます。
ここ2年は、秋田市の駅前、城址公園の入口に位置する秋田市文化創造館の立ち上げにディレクターとして携わっていました。歴史的建造物である旧県立美術館を活用し、アートNPOが指定管理する拠点ということで、BankARTの事業や池田さんがお話しされていたことを自分なりに参照しながら取り組んでいました。行政やまちのプレイヤーと組みながら、いかにしてオルタナティブで文化的に豊かな場をつくっていくのか。BankARTのスタッフとして「Reading Room」開催当時のきっかけをつくり、一緒に伴奏してくれた芦立さやかさんも一緒でした(4月から彼女がディレクターです!)。
自身はこれまでと同様、同じ地域にとどまり続けて仕事をするという選択をすることがまだできていませんが、今後も池田さんが度々キーワードに掲げられていた「リレーする」ことの意味、重要性を考えながら自分にしかできない仕事をしていきたいと思います。ありがとうございました。
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Hoppy with Mr. Ikeda & Yumeko
最初に池田修さんとお会いしたのは多分2007年、馬車道にあったBankART Studio NYKでのアーティスト・イン・レジデンス・プログラムでした。池田さんの一挙手一投足に戦々恐々としつつも、あの独特の広々としたインダストリアルなカッコ良い空間で大きな絵を思い切り描かせて頂きました。NYから帰国して10年後でしたが「こんな空間が日本にもあったんだ!」とワクワクした高揚感を思い出します。その後何と6回もレジデンス・プログラムに参加させて頂き、BankART Studio NYK、BankART SILK、BankART Temporary、BankART Stationで滞在制作させて頂いたのは得難い経験でした。ギャラリー等で発表するのとはまた全然違った面白さでした。馬車道のハンマーヘッドスタジオに1年間滞在させて頂いたのも素晴らしい体験でした。その時に始めた「ダンサーを迎えてのクロッキー会」もその後何回かBankARTでも開催させて頂きました。その時々にお会いした多くのクリエーターやその場でお会いした皆様とのご縁も宝物です。
ほとんど場と一体化していたと言っても良いくらい、歴代のBankARTには池田さんの美学が貫かれていたと感じます。強面で情熱的だけど、とても繊細な感覚をお持ちの方だったと言う印象です。私が思い出すのはPubに座って色々な方々に囲まれて楽しそうにホッピーを飲んでいたお姿です。
特に誰に頼まれたわけでもないのですが、「池田修さんへの手紙」企画に投稿しようかな?と「Hoppy with mr.Ikeda and Yumeko」と言う水彩画を黄金町のスタジオに夜な夜な通って二週間程で描き上げました。(スタジオのご近所の方には「あんたここに住んでるの?」と怪しまれつつ、、)この絵の元になった写真は、NYK最後のお別れパーティーの時に撮った仲良しの高杉嵯知さんとの珍しく素敵な笑顔のツーショット。池田さんと言えばはやはりホッピーでしょう!と言うことで勝手に付け足して描きました。肩に止まっているのは現BankART代表の細淵太麻紀さんがコロナ禍で飼ってらしたセキセイインコのゆめこ。残念ながら池田さんより一足先にゆめこも虹の橋を渡りましたが、きっと雲の上で池田さんの肩に止まって導いているのではないかなぁと言う妄想を具現化してみました。御存命だったら「こんな絵描くのやめてよ~!」って言われてしまいそうですが、これは私から池田さんへのファンアートです。
最後まで現場でハードに働いて突然居なくなってしまった池田さん。とても寂しいですが、空から「ちゃんと良い作品作れよ!」とずっと見守っていて下さってると感じています。思い起こすと沢山のご恩を頂いてばかりで、全然お返し出来てないなぁと呆然とするばかりです。本当に今までありがとうございました。
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私の校長先生、池田さん
池田さんとお別れして、早3か月が過ぎようとしています。
思い起こせば17年前のこと。社会と隔絶された専業主婦の日々に悶々としていた40代の私が、あたかも駆け込み寺のように飛び込んだのがBankART Schoolでした。
当時、「知」や「学び」に、どれほど枯渇していたのでしょう…。貪欲なことに週に2回も、月曜日と火曜日の夜に、電車に乗って夜の馬車道まで通いました。今はなきBankART Studio NYKでのスクール初日。その日は、くしくも大学院の合格発表の日で、40代後半で社会デビューを試みる心細い私を、講師の加藤種男先生が、「暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月」という和泉式部の和歌で祝ってくださった情景が、今も鮮烈に蘇ります。
その後、不思議な力に導かれるように、北仲スクール勤務を経て、横浜市職員となりました。たどたどしい私の横浜での歩みのなかで、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、BankARTに行き、そこに集う同志のような皆さんとの交流によって、刺激を受けたり、励まされたりして、曲がりなりにも今日までやってこられました。そんな時、いつも池田さんは、まるで校長先生のように、あたたかく、そして厳しく、見守ってくださいました。
クシシュトフ・ボディチコ「アートと戦争」、これヨコ、新港村、ADB連携事業のアートイベント…
BankARTとの思い出は尽きませんが、韓国に派遣していた際には、光州まで遠征してきたBankART展に駆け付けたこともありましたね…。でもやはり、私にとっての一番の思い出は、「3日間だけ渋谷にBankARTを作っちゃおう!」というプロジェクトを、こっそりと二人で企画したことです。コロナで実現せず、幻の企画となってしまいましたが、私の無謀な思いつきに、速攻、快諾してくださり、数日のうちに作ってくださった企画書「横浜未来旅行」は、池田さんがただ一度私にくださったお手紙として、一生の宝物です。
NYKが無残にも壊され、Home、Temporary、SILK、Station、KAIKOと、横浜の街を漂流するかのような運命を辿ったBankART。どんな逆境にも、頼もしく前向きで、しなやかな姿勢を崩されなかった池田さん。「創造都市の遺伝子をもった人が、タンポポの種のように、あちこちに散らばっていけばいいんだよ」と、ついつい悲観的になってしまう私を、泣き笑いのような笑顔で逆に励ましてくださいました。
「池田さんに恩返しをする」。これが私の横浜市勤務での最大のモチベーションでした。池田さんがいなくなってしまった横浜で、これから何に向かっていけばいいんだろう…と途方に暮れています。
小さなタンポポの綿毛が広い空を飛んでいき、そこここに花を咲かせるように、私も、しなやかな強さを身に着けて、池田さんの偉大な功績を少しでも多くの方にお伝えし、創造都市の遺伝子を引き継いでいけるよう、これからの毎日を生きてみようと思います。それが私の果たせなかった池田さんへの恩返しです。
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池田修さんと一緒にやったこと
池田修さんに初めて会ったのは、1997年、大阪市の街中で開催された展覧会でした。諸般の事情で、この展覧会はPHスタジオの経歴には掲載されていません。私は映像作家として参加していました。そういう意味では、不幸な出会いだったのかもしれません。
次にお会いしたのは2001年春、広島県灰塚でした。この年の秋、私がプロデューサーとして、自分が育った岡山県の山陽団地というニュータウンで「ニュータウン アートタウン展」という現代美術展を開催することにしていました。PHスタジオに参加してもらえればいい美術展になることは分かっていたのですが、私たち実行委員会にPHスタジオの要求を実現出来る力量があるか不安だったので、参加依頼をするかどうか迷っていたのでした。悩んでいても始まらないので、灰塚で「船をつくる話」の製作をしていた池田修さんに会いに行ったのでした。私たちも腹を括り、正式に参加をお願いすることにしました。PHスタジオは、2階建ての集合住宅が並ぶ中にある公園に、その2階建ての要素を分解・再構成し、人が集まれる場所を作った「外の家」という作品を作りました。なお、この展覧会では建築家のみかんぐみにワークショップをやっていただいており、池田修さんとみかんぐみが出会うきっかけにもなりました。その後、BankARTの改修等でみかんぐみが活躍することになったので、最初のきっかけを作ったことが、私の密かな自慢でした。
翌2002年、広島市現代美術館でPHスタジオが、灰塚で続けてきたプロジェクト「船をつくる話」を紹介する展覧会をすることになり、私に映像製作の依頼がありました。展覧会を終えた後、あの巨大な船がどうなるのか見届けたくなり、最後まで撮影を続けさせて欲しいとお願いしました。その結果が、『船、山にのぼる』(2007年)というドキュメンタリー映画に結実しました。
2004年に池田修さんがBankARTの運営を始めて以降は、様々な展覧会やイベントの撮影をやってきました。
池田修さんは仕事に対してはとても厳しい方でした。同時にアートや建築についていろんな話をしてくれました。アートにも建築にも門外漢だった私にとっては、先生でもありました。
昨年から今年にかけて、池田修さんは私に「本田君、本田君の映画の上映会をやろうよ」と何度も声をかけてくれていました。私はどういう形で見せるか、なかなかアイディアが浮かばず、いつも曖昧な返事を繰り返していました。宿題をもらったまま池田修さんが亡くなられたことが残念でなりません。