ヨコハマ創造都市を巡るリレーレクチャー 神部 浩 2018年10月26日

横浜トリエンナーレを長きにわたって推進してきた、文化観光局文化プログラム推進部長の神部浩氏に、トリエンナーレの歴史をスライドをみながら解説していただいた。国際展の歴史の浅い日本にとって、2001年に始まり計6回開催したヨコトリは、日本の中では先輩格とも思えるが、歩んだ軌跡は決して平坦ではなく試行錯誤の連続だったとのこと。

国際交流基金の旗ふりのもとスタートした国際展だが、横浜市は最初から狭い領域のアートプログラムにとどまるのではなく、横浜の街づくりを強く意識したプロジェクトにしたいと考えていた。1回目は竣工したばかりの横浜パシフィコの展示ホールと大改修を施した赤レンガ倉庫、2回目は山下埠頭3、4号上屋、3回目は新港ピア+日本郵船海岸通倉庫等。これらの場所は現在横浜の象徴的な場所として位置づけられており、大規模開発の最中でもある。会場の決定の段階で未来への予感(計画)をしたためていたことは確かだ。一方開発途上の場所を攻撃的に先行使用するということは、不安定要素も含まれ、その場所そのものが使えなくなるというようなアクシデントが何度もおこった。

継続についての困難さもあった。それは、動員数だけが一人歩きして、内容からのあるいは専門家からの評価が、土俵にのってこないことである。議会等から、「中止」の声がささやかれるなか、「街にひろがる」というキャッチフレーズを武器に、なんとか、市民を巻き込み、経済的にも自立し、動員をはかることで、市民権をえるプログラムに変換すべき継続した努力を続けている。

会場からの質疑応答で故北沢猛(元横浜市参与、アーバンデザイナー)氏の言葉、「ヨコトリは、創造都市のショーケース、都市の総合力が問われている」というキーワードが挙げられた。常に都市政策との関係で試行錯誤を繰り返し、チャレンジを続けていったヨコハマトリエンナーレは、今後も新しい街づくりの指標になるべく、継続されていくだろう。

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第一回の様子

ヨコハマ創造界隈アーティストトーク 川口ひろ子 2018年10月6日

横浜アパートメント、藤棚アパートメントのオーナーの川口ひろ子氏は、横浜市元参与の北沢猛氏、元副市長の小松崎隆氏とともに創造都市を作った中心メンバーの一人、文化芸術都市創造事業本部の本部長川口良一氏の奥様である。川口氏は、出版社で主に女性関係の記事、書評を行うライターとして活動している頃は、現代アート、創造都市とは無縁であったが、あるとき夫から、クリエイターの活動する施設を作るから手伝ってくれと相談を受けたのがアートと関わるきっかけとのこと。夫がなくなった現在でも、1階が共有スペースで、2階には住戸数が4部屋の「横浜アパートメント」のオーナーとして展覧会を企画・開催し続きている。また2016年には、アパートの近隣に小規模な藤棚アパートメントを構築し、地域のコミュニティ形成に寄与している。一住民として自分の好きなことを行いながら、レベルの高い活動を継続されていることには頭が下がる。

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藤棚アパートメント

ヨコハマ創造都市を巡るリレーレクチャー 岡田 勉 2018年10月5日

東京青山の文化施設「スパイラル」シニアキュレーターの岡田氏のお話を、彼らが9年運営している「象の鼻テラス」で伺った。ご存知の通り、スパイラルは下着メーカーワコールが推進する文化事業の本拠地。この「象の鼻テラス」は開港150周年記念事業として、当時横浜市が企画推進し、運営者を公募したものだが、スパイラルが、継続して運営を続けている。東京で培ってきたノウハウとセンスを駆使しながら、横浜市という公的なチームとがっぷり四つになり、確実な成果をあげてきている。メイン建物はもちろんのこと、公園や河岸を活用しながら、パブリックスペースの新しい姿を提案構築してきている。スマートイルミネーション、パラリンピックなど、館外に滲みでた評価の高いプログラムも多い。

今日の話は、岡田氏の横浜時代(小中高)から大学時代、ワコールに入社するまでのモチベーションなど、プライベートな話にも触れながらの楽しい話だったが、もともと建築家志望だったのには、少し驚いた。でもよく仕事の内容をみてみると岡田氏の仕事の廻りには、優秀な建築家の固有名詞が散らばっている。スパイラル(槇文彦設計)、バルセロナ博(隈健吾コーディネート)、アーバンリング(クールハウス、北沢猛)、アルヴァーアルトー(フィンランド)などの建築系の勇士があたり前のように顔を連ねている。

会場からは、パブリックとプライベート問題や、頑張っているけど知られていないなど、必ずといっていいほどでる辛口の質問や意見がでたが、企業人であり、行政と長くやってこられているので、さすがにさらりと交わしながら、でも本音もちくりとお話されて対応されていたのが印象的だった。

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象の鼻テラス

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青山スパイラル

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ヨコハマ創造界隈アーティストトーク 西田 司 2018年9月29日

西田氏は、ヨコハマ創造界隈でも、群を抜いて成長している建築事務所、「オンデザイン」を牽引しているリーダーだ。最近は、都市に関わる大きな仕事も手がけており、建築家というよりもコーディネーターとしての役割が増えている。都市を開くというキーワードのもと、都市の中でコミュニティの形成や共有の新しい仕方を様々な建築的な手法で実験し、切り開こうとしている。10年前に計画したアパートメントが、そうした氏の代表作として位置づけられているが、現在は大学の寮のような大規模物件まで手がけるように展開してきている。さらに、最近は大手の企業とリンクし、都市再開発に関わる実験事業も手がけており、その勢いはとまらない。数人でスタートしたオフィスは、現在は数十人を要する大所帯。大きくなるとハードルも高くなるとは思うが、ここしばらくは地域のクリエイターとのコラボレーションも含めて、ヨコハマ創造界隈を引っぱっていくことだろう。

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ヨコハマアパートメント

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複合創造拠点 泰生ポーチ

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横浜キャンパス(仮称)新国際学生寮 2019年3月竣工

ヨコハマ創造界隈アーティストトーク 川本尚毅 2018年9月22日

インダストリアルデザイナーの川本尚毅氏のトーク。川本氏は、東京造形大学デザイン科の都市環境を卒業し、その後ロンドンのRCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)に入学。RCAに加え、Imperial College Londonでも修士号を取得した。RCAでは何かを生み出す時、製品を裏付ける根拠やストーリーがないと、単位取得も認めてもらえないほど、アイデンティティのある創作することを求められたとのこと。共同作業がメインのゼミで、氏は語学が周囲に劣る分、徹底的なリサーチで考えぬき、手を動かして物を作りあげることを徹底的に行ったとのこと。氏の代表作であ「ORISHIKI」はこうした背景から生まれたそうだ。クラスメイトであった、ロドリゴ・ソロッサーノ氏とN&R Foldingsを立ち上げ、2012年に帰国し、シェアスタジオ新・港区にその日本支社を設立した。3dCADを駆使しながら、遠方でもやりとりしながらものづくりを進める一方、横浜で拠を構える利点として、中小企業や町工場との距離の近さが魅力に言及した。新横浜エリア等には中小製造業が多く、日常的に職人たちと接しているそうだ。海外と地域との結びながら、プロダクトデザインの領域の様々なジャンルのモノづくりをボーダレスに行っている川本氏だが、そこには、氏の優れたコミュニケーション能力が、流れていることが伝わってくるレクチャーだった。

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「ORISHIKI」

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シェアスタジオ新・港区

ヨコハマ創造界隈アーティストトーク 村田 真 2018年9月15日

村田氏は、BankARTスクールの校長を14年間、継続して担ってもらっているが、横浜に関係してからのもうひとつの顔は、「絵描き」としての村田氏だ。元々造形大学の油出身の村田氏であるが、大学2年の頃に絵を描く事は諸事情でやめたらしい。それからは「ぴあ」のスタッフとして、その後はフリーランスのジャーナリスとして、彼が日本の現代美術界ではたしてきた役割は大きい。
BankARTの関係で、横浜に関わってからは、大きくハンドルをきって長い期間封印していた「絵描き」としての活動を始めた。横浜の地に多くのシェアスタジオが誕生したのもひとつの理由だろうが、そこに村田氏個人のアトリエを設け、淡々と活動を続けている。
今回のトークでは、ジャーナリストとしての村田氏ではなく、絵描きとしての14年間の活動を伺った。現在も、ジャーナリストと絵描きの二足のわらじを続ける村田氏だが、彼のBankARTでのゼミや黄金町ゾーンで開いているレクチャーなどとリンクしながら、横浜の美術界の土俵を常に持ち上げてくれている。

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左 アートのみかた
ウエブマガン「artscape」に展覧会レヴューを書き始めた1999年からの10年間掲載したレヴュー1646本を収録。
右 BankARTスクール「戦争と美術」の講義内容をまとめた書籍。スクール校長の村田真が構成編集。

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2011年 NYKでの展示

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2011年 新港・村での展示

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ヨコハマ創造都市を巡るリレーレクチャー 池田 修 2018年9月14日

BankART1929代表の池田のレクチャー。何故美術の世界にはいっていったかという話から始まって、レギュラーの先生が事情でいなくなり、自主ゼミばかり行っていて先生を自分たちで招聘していたというBゼミ時代の話とその小林校長との出会い、ゼミでの川俣正との出会い、ヒルサイドの工事中での北川フラム、原広司との出会い、など、あまり日頃聞けない話を伺った。
また、なぜ横浜にBankART1929は生まれたか?という都市形成論をベースに北沢猛が構築した横浜創造都市構想の核心部についても熱く語った。
後半はBankART1929の運営論。現在の活動を支えるコンセプトにあたる部分に触れながら、多様な活動を淡々と語ってくれた。最後に、PHスタジオの代表作「船、山にのぼる」の映画を早回ししながらの解説。何人かの方が、うるうる。という盛りだくさんのトーク。
雨漏りする高架下のR16スタジオには60人を越える参加者が傘をさしながら最後迄聞き入ってくれた。

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ヨコハマ創造界隈アーティストトーク 竹内昌義+マニュエル・タルディッツ 2018年9月8日

みかんぐみは曽我部昌史、加茂紀和子、竹内昌義、マニュエルタルディッツの4人の建築家による建築設計事務所である。今回は、7月21日の曽我部氏、加茂氏に引き続き、竹内氏、タルディッツ氏に話を伺った。
フランス、パリ生まれのタルディッツ氏には、主にフランスでの学生時代の話や、建築に携わるようになった経緯を、数々のエピソードや初期作の図面を交えて紹介していただいた。君の成績は美術も理数も平均的だから建築家になりなさい、と先生に勧められて建築の道に進んだというエピソードが印象的だった。
竹内氏には、みかんぐみの経歴と代表作品を紹介してもらいながら、クライアントとの付き合い方、建築家が踏み込み、コーディネイトしていくべき領域について、興味深い話をしていただいた。
アフタートークでは、建築家がどこまで現在の社会システムに働きかけることができるのか、熱い議論が交わされた。

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マニュエル氏が担当した東京日仏学院のリノベーション

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竹内氏の著書『原発と建築家 僕たちは何を設計できるのか』

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ヨコハマ創造界隈アーティストトーク 丸山純子 2018年9月1日

丸山純子氏は、立命館大学卒業後、アメリカのハンターカレッジで美術を学ぶ。日本に戻ってきた彼女は、「生命」に関する作品に取りくみ始める。彼女が最初に素材として選んだものは、スーパーのレジ袋だ。通常なら捨てられる袋を丁寧にカット、集積し、可憐な白い花をつくりあげる。茎の部分は白い針金を用いてジョイントする。大地の芸術祭での米蔵やBankART Studio NYKの巨大な倉庫空間では、誰もがたちすくむ崇高なインスタレーションを展開した。丸山氏の作品をより高貴に導いているのは受ける印象の艶かしさだ。ビニールを用いた人工的な造花なので、つくりものの印象を受けるかと思えばそうではない。風にゆれ、人の動きにも適度に反応する。ビニールの原型は太古の海底に眠るプランクトンの集まりであり、生命体としての起源を有しているのだ。

初期の巨大なシェアスタジオ「北仲BRICK&北仲WHITE」での活動も特筆に値する。250名もの様々な方向を向いているクリエイターを束ね、浅井裕介さんとともに、オープンスタジオを成功に導いてくれた。彼女には、そういった側面があるのだ。

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「Landmark Project 2」2007

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「BankART LifeⅤ〜観光」2017

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新しいカタログ。BankART Homeで販売中

ヨコハマ創造界隈アーティストトーク 矢内原充志 2018年8月25日

ダンスパフォーミングアーツグループ「ニブロール」を率いる矢内原美邦氏の弟。
活動当初はダンス衣装を担当していたが、現在はファッションデザイナーとして、独立した活動を行っている。BankART 関係では、BankARTパブの制服、続・朝鮮通信使のコスチューム、BankART妻有のカーテンなどを手がけてもらっている。また関内外地区のシェアスタジオではリーダー核的な存在で新・港区(153名のクリエイターがいた巨大シェアスタジオでも)では、他の多くのクリエイターとコラボレートしながら、スパイラルでの大きなショーを成功させている。
最近は、ファッションデザイナーの領域を越えて、都市計画のコーディネートのような仕事にその活動は広がっている。故郷今治を中心に、建築家伊東豊雄の「塾」を導入したり、建物を誘致したり、人と人のつながりに関係する仕事を推進している。ご存知の方も多いかもしれないが、矢内原兄弟は四国の名士の流れをくみ、矢内原伊作(ジャコメッティ研究/詩人)や矢内原忠雄(東大総長)の直系にあたる。大げさかもしれないが、全体を俯瞰しながら社会を牽引する、丹下建三や村上水軍を生んだ今治っ血が流れているのかもしれない。

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ハンマーヘッドスタジオ新・港区

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パブ制服

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族・朝鮮通信使衣装

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布からのデザイン展/個展 @スパイラル

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